昭和五十年九月二十日 朝の御理解
御理解第六十三節一粒万倍といおうが。一人がおかげを受けたので千人も万人もおかげを受けるようになるから、よい手本になるような信心をせよ。
良い手本になるような信心。それが一粒万倍の基になるような信心。よく私がおかげを頂かなければ、人にもお話ができない。まず私がおかげを頂かなければ、とよく申しますけど、私はおかげでは勿論、おかげを頂かなければいけませんが、おかげでは人の手本となる様な亊にはならない。なるほど、金光様の信心をすれば、ああいう風に金持ちになれる。けれども勘定はしておるけれども、金持ちにはなれない。唯、おかげだけでは手本にならない。金光教は金の光ると書いてあるから、金光様の信心をすりゃ、おかげの不自由せんげな、亊では手本にならない。やはり、私は行ないが変わって来なければ、変わらなければ手本になるような、信心にはならないと思う。そしてそこから頂けるおかげ、云うならば私を見て下さいと。金光教の信心とはと、例えば問われたら、私を見て下さい、私一家を見て下さい、と云い得る信心だと思います。これは厳密にもうしますとね、ことはどこも、私の信心を見て下さいと云う人は、まず無かろうかとおもいますね。それが金光様の信心です。もう本当です。例えば、ここで私の信心を手本にして下さい、とはとても云えないです。私の真似どもしよるなら○な亊はなかと思うのです。自分の内容というものを段々に、今は判れば、判ってくるほど、だから一つの、ま、見本にならない亊はないけれども、私はいつも私の信心を頂きたいと云うて見える人にも、申しますけれども。私の信心を頂く為にはまず、私の信心を一応、マスタ-して頂かねばいけません。そりゃ、良いも悪いも言わば、根からごっそり、こう見てもらわねば、分ってもらわねばならない。そして、悪いところだけは捨てていって下さいと云うのです。ですから、これは皆さんのための腰掛になるのは嫌ですけども、その踏台になる、踏み○○のなると云う亊ならば喜んで、それを甘んじます。と云うような意味の床を思います。それは私の信心が完璧ではない。いや完璧どころか、もう私のような真似ども、しよるなら大亊と言うたようなものを内容に見るからです。自分と言う者を、けど実際におかげと言うものを頂いとりますから、私ほどの信心でも、こうやっておかげを頂いておるけれども、おかげだけでは当てにならん。厳密にいうなら、私の信心を手本にして下さいと言う人は無かろうかとおもいます。 そこで私はお道の信心をさせて頂く、ああ、金光様の信心ちゃ、素晴らしい亊は素晴らしいなと、いえれる。また、思うて貰えるよな、形乃得えに現れたもの。まず、どういうことでしょうか。第一、金光様の信心しよりゃ、迷信を言わない。世間が広い。心が広うなる。それに例えば金光様の信心を頂いとってです、さあ、何の日が良いの悪いのと言ったようなです。さあ、家を建てるのに家相を見ておると言ったようなのが、もしあるとするならばこれだけでも手本にはなりません。金光様の信心はどこまでも迷信打破の信心ですから、その迷信を打破出来るほかに私は手本になることはなかばってん、これだけは言はんですむと言う亊になればそれが見本になります。おかげと頂いて私の家では方角も、日柄もない。もう、いつも有り難い日であり、どの方角でも皆有り難い。わたしはここだけは、自分で素晴らしい。金光様の信心をする様になってこれだけはおかげ頂いとりますがのと言う信心。 段々信心をさして頂いたら出来る。内容をわかれば、わかるほどです。本当に謙虚に、実意丁寧、神信心にならなければおられない。なんとはなしに、物腰なら違うと思いよったら、金光様の信者げなと、位な実意さと言う位なものが私は出来なければいけないと思うですね。実意丁寧であらなければならない。それにお道の信心を頂いておる者でも、頂いておらないものでも、出来ておる様な実意を欠いた。これでは手本になれません。私は内容は、手本にして下さいと言う様な亊は言えないけれども、せめて形の上に現れてくるもの。せめてここに精進しておる。金光様の信心を頂いておれば、こういう信心は言椀で住むといった様なね。まだいろいろありましょう。あっちは人の悪口どもは、決して言いなさらんと思いよったら金光様の御信者げなと言う様なね。よう人の悪口を言う人がある。そこへおったら逃げよと。陰で人を助けよと仰る様にね。もう本当に、金光様の信心しよったら、もう、決して人の悪口どもは言いならんですのやと言うような位にならにゃいけない。それで金光様の信心を頂いとって、人の悪口を先だって言う様では手本にはならないです。一人がおかげを受けた為に、千人も、万人もおかげを受けるようになる。これは例えば、成程、金光様の信心を素晴らしいとか、金光様乃信心の比礼になるような、おかげを受けると言う亊。それはまず、私がただ今申しましたような意味会いですね。例えば人の悪口を言わんとか、なんとはなしに、実意丁寧にと言うようなものが身について来る。けれどもなら、これだけでは、人は助からんのです。一粒万倍と言いますね、そういう変わり方をさせて頂く。改まらせて頂くおかげを頂いて、その上にです。とてもね、私の信心を手本にして下さい、と言うような内容はない、と思えれるような信心と言う亊は、自分自身が分かると言う亊です。 福岡の初代は馬鹿と阿呆で道を開けと言う信心を芯になさった。久留米の初代は信心辛抱さえしとれば、物亊整わぬことはないと。どこへお粗末、御無礼を例えば、あるとしましても、信心辛抱さえしておれば、物事整わぬことはない。と二代金光様に教えを頂かれて、それを石橋先生の信条となさった。どこにどうと取り柄はないけれども、あっちはなかなか心は大きい。私は馬鹿と阿呆と言う亊は心が大きいと言う亊だとおもいます。心が豊かであることだと思うです。三井教会の初代はこりを積むな、こりを積ますな、身を慎めと言う信心をなさった。私はね、自分の身に特を徳を受ける。その力にまたは、その徳におかげが頂ける亊になるとおもうです。 初めの申しました亊は形の亊しょう。だから内容に於てです。いうなら、馬鹿と阿呆を通すというか本当に信心辛抱し抜くと言うか。こりを積ません。こりを積まんで済むと言うか、心掛けと言う様な信心に私は打ち込まなければです。必ず、一粒万倍と言うようなおかげが、所謂手本になるような信心とは、そう言う信心を言うのだと思います。 成程、福岡がかげを頂きなさった。成程、久留米があれほどの御比礼を輝かしなさった。御本部参りと言えば、久留米の千人参りと言われるほどの、御比礼をたてられ、三井教会に於てもしかりであります。そこの所に焦点をおかれたんです。こりを積ますな、こりを積むな。信心辛抱、馬鹿と阿呆で道を開けと言う。そういう信心が出来られた。そこに私は形の上の亊とそういう信心があいまって、はじめて一粒万倍のおかげが受けられる様になります。所謂、自他共に助かって行く道が開けて来ると思います。 皆さんどうでしょうか。形の上だけでも手本になるような信心が出来て来ただろうか。迷信は言わんで済む。何とはなしに言うこと、することが変わって来た。所謂、実意丁寧な一つの金光様の御信者のタイプと言うものが出来てきた。そういう例えば形の上からでも真似が出来、私は毎朝、控えに参りましてから、天地を拝まして頂いた後に、三代金光様の御写真の前で御祈念をいたします。お写真を眺める。私はもう、毎日、毎日不思議でたまらんのですけどね。金光様がにこやかであられる時があるかと思うと、もう厳しい、とてもこう下、うつぶかにゃおられんごと、厳しう、こちらの神経と思や、神経ですけどもね。もう金光様の御表情でその日の信心がああ、今日はしっかりせにゃいけんな、と思うんです。 皆さん、試してごらんなさい。本当ですよ。これは他の先生方からもよく聞く話です。金光様のお写真を毎朝、拝まして貰う。私はとても内容の真似は出きんから、せめて形の上だけでもです。それも皆とは出来ませんから、もう一部分だけでも、金光様あなたの真似だけでも、させてくださいと言う願いをいたします。だからこれはもう、親先生は金光様のごたると言う形の真似の出けとるところだけと、見る人が言う亊じゃないでしょうかね。 言うならば、実意丁寧、神信心と言う。神信心は出きんでも実意丁寧の風なら、風だけでもです。金光様のごと見える形のことです。言うならば、形から、例えば入る。そしてただ今申しますような、もうこの信心で行けば、必ず力を受ける。おかげを受ける。おかげをうけると言う。それを私共の手続きであるところの、三井教会、久留米教会、又は福岡の先生の各々の御信心を聞いて頂きました。これなら間違いなしに力を受けられると言うのです。そこから、受かられるものは、おかげ。そういう信心によって頂く所のおかげ、又は形でなからなければ、その人の手本になる様な信心とは言えないと思うですね。 「どうぞ。」